タキトゥス

コルネリウスタキトゥスCornelius Tacitus, 55年頃 - 120年頃)は、帝政期ローマの政治家、歴史家。個人名はプブリウス(Publius)ともガイウス(Gaius)ともいわれるがどちらかは不明で、通常は個人名を除いて表記される。サルスティウス、リウィウスらとともに古代ローマを代表する歴史家の一人であり、いわゆるラテン文学白銀期の作家として知られる。その著作では、ローマ皇帝ティベリウスカエサルの治世中にユダヤ総督ポンテオ・ピラトイエス・キリストを処刑したことも書いている。

属州出身者であり、かつ騎士身分の出であった。アグリコラの女婿となり、元老院議員となる。97年にはルキウス・ウェルギニウス・ルフスの死を受けて補充執政官に就任している。

著作はローマ帝国の衰亡を憂い、共和制時代の気風の回復を訴えるものが多い。これはタキトゥスが「頽廃」の影響の少ない属州出身者、騎士身分の出身であったこと、フラウィウス朝下でローマの風俗の引き締めが見られたこと、ドミティアヌス治下で「暴君」を経験したことなどが考えられる。またタキトゥスの著作がネルウァ、トライヤヌス治下で書かれており、自由な言論が許される環境であったことも考慮すべきである。

共和政時代からの伝統である元老院主導による政治を懐かしむ傾向が強い。全体的に元老院を重んじた皇帝達(特にトライヤヌス)に対する評価は高く、元老院を軽んじたり元老院に対して対決姿勢を取った皇帝(ティベリウスドミティアヌス)に対する評価は低い。特にティベリウス帝に関してはある程度の業績を認めつつもかなり辛辣に書かれている。そのためモムゼンをはじめとする後世の歴史家達がティベリウスの再評価を進めるまではタキトゥスの言う「悪帝」との評価が一般的であった。

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プロイセン

プロイセン(ドイツ語: Preußen、ポーランド語: Prusy、リトアニア語: Prūsija、プロシア語: Prūsa)は、現ポーランド北部からカリーニングラード州(ロシアの飛び地)・リトアニアにかけて広がる地域。歴史的には、北にグダニスク湾(英語版)からクルシュー砂州にかけてのバルト海、そしてヴィスワ川流域西方からネマン川の間にある内陸のマズールィ(英語版)(Mazury)にかけての地域である。プロシア(普魯西)は、英語名(Prussia)に基づく名称である。

プロイセン公国ブランデンブルク辺境伯を起源とし、ドイツ統一ドイツ帝国)の中核となったプロイセン王国(ドイツ語:Königreich Preußen、英:Kingdom of Prussia、ポーランド語:Królestwo Prus)の国名は、この地域の名称に由来している。

プロイセン地方の領域は西側はポメラニア(ポーランド名:ポモージェ、ドイツ名:ポンメルン)でドイツに接し、東はネマン川(ドイツ名メーメル川)を境にポーランドリトアニアに隣接、ヴィスワ川(ドイツ名ヴァイクセル川)で東プロイセン西プロイセンに分けられる。東プロイセンの中央には東西にプレゴリャ川(ドイツ名プレーゲル川)が流れ、その河口に中心都市カリーニングラードケーニヒスベルク)がある。

プロイセン地方は、1772年のポーランド分割以降全域がプロイセン王国(後のドイツ国)の領域に入っていた。だが、第一次大戦後のヴェルサイユ条約によってダンツィヒ以外の西プロイセンはドイツ国からポーランドへ割譲され、東プロイセン自由都市ダンツィヒポーランド回廊によってドイツの飛び地になった。第二次世界大戦勃発(ポーランド侵攻)後、戦時中は再び全域がドイツ国ナチス・ドイツ)の管理下に置かれたが、大戦後は西プロイセン全域がポーランド領に、東プロイセンソビエト連邦(ロシア、リトアニア)とポーランドに分割され、それ以降はプロイセンという地域名が現地で使われていない。

第二次世界大戦以前のプロイセンの住民は、東方植民によって移住してきたドイツ人が多数を占めていた。だが、終戦前後にソ連が行ったドイツ人追放または国外避難でほとんどのドイツ人はドイツへ移住し、現在のプロイセンの住民のほとんどはポーランド人、ロシア人またはリトアニア人となっている。

プロイセンという名前は、プルーセン人またはプルッツェン人として知られるヴィスワ河口付近に居住した先住民に由来する。民族大移動以降はソルヴ人やカシューブ人のようなスラヴ系諸民族も移住してきた。またもう一つの説では、ロシアあるいはルーシの近くを「プロシア」と呼んだことから来ているとも言われている。

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普仏戦争

普仏戦争(ふふつせんそう、独: Deutsch-Französischer Krieg、仏: Guerre franco-allemande de 1870)は、フランス第二帝政期の1870年7月19日に起こり、1871年5月10日まで続いたフランス帝国プロイセン王国の間で行われた戦争である。

プロイセン北ドイツ連邦のみならず、南ドイツのバーデン大公国・ヴュルテンベルク王国バイエルン王国と同盟を結び、フランスに圧勝した[1]。この戦争を契機に、すでに旧ドイツ連邦の解体で除外が濃厚となっていた議長国オーストリアを除いたドイツ統一が達成され、フランス第二帝政は崩壊した。

ドイツ諸邦もプロイセン側に立って参戦したため独仏戦争とも呼ぶ他、フランス側では1870年戦争と呼称する。なお、日本の世界史の教科書ではプロイセン=フランス戦争と呼称する例もある

背景
ドイツ統一のためのナショナリズム形成を目論見、プロイセンは全ドイツ共通の敵を必要としていた。そして、スペインで発生したスペイン1868年革命(スペイン語版)による女王イサベル2世のフランスへ亡命後のスペイン王位継承問題でプロイセンとフランスの対立が高まる中、プロイセン首相(北ドイツ連邦宰相)ビスマルクは「エムス電報事件」でフランスとの対立を煽り、また北ドイツ連邦と南部諸邦の一体化を図った上で、フランス側に開戦させた。

開戦から第二帝政瓦解まで
フランスは7月19日にプロイセンのみに宣戦したが、ドイツ諸邦はプロイセン側に立って参戦した。

緒戦こそ、フランスがザールブリュッケンを占領して勝利したが、以降はプロイセン及び同盟軍の優勢で推移した。周到に作戦計画を練っていた(10回以上もの作戦計画を練っていた)参謀総長モルトケ率いるプロイセン軍は、野戦砲と鉄道輸送を巧みに活用し、フランス軍正面と右翼を攻撃、フランス軍の敗北が続いた。フランス軍は北に圧迫され、戦局はフランスに不利に推移した。

ナポレオン3世は自ら戦地に赴き、9月1日のセダンの戦いに臨んだが、プロイセン軍は戦線に穴を空けた南方から迂回し、セダンから首都パリへの退路を断つ包囲行動に出ていた。フランス軍はセダンで完全に包囲され、開戦からわずか1ヵ月半後の9月2日、ナポレオン3世は10万の将兵とともに投降し捕虜となった。この一連の出来事にフランス市民は激怒し、2日後の9月4日、ナポレオン3世の廃位が宣言されるとともに、国防のための臨時政府の設立(国防政府)が決議された。

継戦とパリ包囲
プロイセン首相ビスマルクは勝敗が決まった時点で即講和し、ゆるやかな条約を結びフランスに遺恨を残さないでおこうと考えていた。しかし、大モルトケと軍と世論のアルザス=ロレーヌ併合を求める強硬な反対にあった。また、フランスはオーストリアのように将来同盟国となる可能性は無く、統一ドイツ帝国が実現すれば列強と対等の同盟を結び、フランスを外交的に封鎖できると考えられた。

一方のフランス側も、領土の割譲を激しく拒否したため、戦争は続行された。

プロイセン軍は、各地の要塞や残存部隊による小規模な抵抗を各個撃破しつつ、パリへ進撃した。9月19日、遂にパリが包囲された(パリ攻囲戦 (1870–71)(英語版))。プロイセン軍は背後にあるメス(メッツ)要塞のバゼーヌ元帥麾下の軍団を警戒して一気に攻め込むことはしなかった。10月27日、メス攻囲戦で、大した戦闘もないままバゼーヌ元帥が18万人の将兵とともに降伏し、フランス軍の組織的な反攻は不可能になった。

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アルザス人

アルザス人アルザス語: Elsässer, Elsässi、アレマン語: Elsäßer、標準ドイツ語: Elsässer、フランス語: Alsacien)は、フランス中東部のアルザス地方に住むアルザス語を話す南部ドイツ人に属するアレマン系の民族。アルザス・ドイツ人、エルザス人とも呼ばれ、ドイツ系フランス人の大部分を占める。

アルザスの中心都市はストラスブール(ドイツ語名:シュトラスブルク)である。

いまではライン川をはさんでドイツと国境を接しているこの地域は、元来ドイツの前身である神聖ローマ帝国支配下にあり、フランス領になったのはスペイン継承戦争以後である。これ以降、アルザス人は「ブルボン家に仕えるドイツ人」と呼ばれるようになった。

フランス領になってからは「フランス化」が進められたが、普仏戦争でドイツに再統合された(このときのエピソードとして、かつてはフランス語に変わってドイツ語が強制されたとアルフォンス・ドーデの短編小説『最後の授業』が例に取り上げられることがあった。しかし、アルザス人が用いる言語アルザス語はドイツ語の方言もしくは標準ドイツ語と極めて近縁な言語であり、実際にはフランス政府による国民統合推進の犠牲となり、アルザス本来のドイツ文化が抑圧されてきた。そのため、この作品はアルザスの実態を示すというよりも、反独民族主義的なイデオロギーを含む作品と考えられている)。

しかし、140年も及ぶフランス支配の帰結として、他のドイツ人とアルザス人との間には文化的・政治的意識のズレが生じ、ツァーベルン事件を機にドイツ人に侮辱されたアルザス人自身はドイツを完全な祖国と見なさない場合が多くなった。他のドイツ人からはアルザス人はフランス文化に汚されていると見なされ、アルザス人は徐々に他のドイツ人と違った独自のアイデンティティーを模索するようになった。

第一次世界大戦後、アルザスは再びフランス領となったが、第二次世界大戦においてナチス・ドイツアルザスを奪回し、一時的に支配下に置いた。しかし、ドイツの敗戦と共にアルザスは再々度フランス領となり、今に至る。

このように度々フランスとドイツの係争地となったこともあり、アルザス人の間には国民意識というより地域意識といえるような独自のアイデンティティーが形成されていった。

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ハプスブルク家

ハプスブルク家(ドイツ語: Haus Habsburg)は、現在のスイス領内に発祥したドイツ系(アルザス系)の貴族。

古代ラテン人の有力貴族であるユリウス一門(カエサル家)の末裔を自称し、中世の血縁制度を利用した政略結婚により広大な領土を獲得、南ドイツを代表する大貴族に成長した。中世から20世紀初頭まで中部ヨーロッパで強大な勢力を誇り、オーストリア大公国(オーストリア公国)、スペイン王国ナポリ王国トスカーナ大公国ボヘミア王国ハンガリー王国オーストリア帝国(後にオーストリア=ハンガリー帝国)などの大公・国王・皇帝の家系となった。また、後半は形骸化していたとはいえ、ほぼドイツ全域を統べる神聖ローマ帝国ドイツ帝国)の皇帝位を中世以来保持し、その解体後もオーストリアがドイツ連邦議長を独占したため、ビスマルクによる統一ドイツ帝国から排除されるまで、形式的には全ドイツ人の君主であった。ヨーロッパ随一の名門王家と言われている。

家名の「Habsburg」の発音は、ドイツ語発音: [ˈhaːpsbʊʁk](ハープスブルク)とドイツ語では発音される。ただし日本では慣用表記・読み方であるハプスブルクが多く使われる。スペイン語ではアブスブルゴ家(Casa de Habsburgo)、フランス語ではアブズブール家(Maison de Habsbourg)となる。ルドルフ1世以来オーストリアを本拠としたことから、スペイン系を含めて「オーストリア家」(ドイツ語:Haus Österreich, スペイン語:Casa de Austria, フランス語:Maison d'Autriche)とも呼ばれる。

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デッサウ

デッサウ (Dessau) は、ドイツ連邦共和国の旧郡独立市で、2007年7月1日に隣接するロスラウ (Roßlau) と合併しデッサウ=ロスラウ市 (Dessau-Roßlau) の一部となった。ザクセン=アンハルト州に属する。1925年より、バウハウス(現代芸術に大きな影響を与えた美術学校)が置かれたことでも知られる。

地勢・産業
エルベ川とムルデ川の合流点近くに位置している。近隣の都市としては、約55キロ南にライプツィヒ、55キロ北西にマクデブルクが位置する。また、宗教改革の舞台として知られるルターシュタット・ヴィッテンベルクが約30キロ東に位置している。

歴史
中世よりアスカーニエン家が治めたアンハルト伯領(後にアンハルト公国)の首都であり、交通の要所として発展した。17世紀の三十年戦争において、ハプスブルク家側の傭兵隊長であったヴァレンシュタインは、この地で新教側のマンスフェルト伯に勝利を収めている。ドイツ帝国期より敗戦まで、アンハルト自由州の州都であった。第二次世界大戦では、この都市に航空機の工場があったため、激しい空襲を受けた。

文化
1729年、この地でユダヤ系哲学者のモーゼス・メンデルスゾーンが生まれた。(ロマン派の作曲家として知られるフェリックス・メンデルスゾーンの祖父にあたる。)また、1925年からこの地に現代美術と現代建築に多大な影響を与えたバウハウスが置かれた。これは「ヴァイマルとデッサウのバウハウスとその関連遺産群」として、世界遺産に登録されている。

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フリードリヒ・マックス・ミュラー

フリードリヒ・マックス・ミュラー(Friedrich Max Müller, 1823年12月6日 - 1900年10月28日)は、ドイツに生まれ、イギリスに帰化したインド学者(サンスクリット文献学者)、東洋学者、比較言語学者、比較宗教学者、仏教学者。

1860年から1880年代まで、大雑把なことを言えば、神話や宗教に関心をいだくようになった人々は、その領域がマックス・ミュラーの神話理論によって、完全制覇されていることを、知らなければならなかった。」[1]と言われている。

父は詩人として知られるヴィルヘルム・ミュラーシューベルトが曲をつけた『美しき水車小屋の娘』『冬の旅』が有名)。イギリス首相を4度務めたウィリアム・グラッドストンとは親友であり、ヴィクトリア女王とも親交があった。息子のヴィルヘルム・マックス・ミュラー(英語版)(1862年 – 1919年)はドイツで学んだ後アメリカへ渡り、エジプト学の研究者になった。

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