プロイセン

プロイセン(ドイツ語: Preußen、ポーランド語: Prusy、リトアニア語: Prūsija、プロシア語: Prūsa)は、現ポーランド北部からカリーニングラード州(ロシアの飛び地)・リトアニアにかけて広がる地域。歴史的には、北にグダニスク湾(英語版)からクルシュー砂州にかけてのバルト海、そしてヴィスワ川流域西方からネマン川の間にある内陸のマズールィ(英語版)(Mazury)にかけての地域である。プロシア(普魯西)は、英語名(Prussia)に基づく名称である。

プロイセン公国ブランデンブルク辺境伯を起源とし、ドイツ統一ドイツ帝国)の中核となったプロイセン王国(ドイツ語:Königreich Preußen、英:Kingdom of Prussia、ポーランド語:Królestwo Prus)の国名は、この地域の名称に由来している。

プロイセン地方の領域は西側はポメラニア(ポーランド名:ポモージェ、ドイツ名:ポンメルン)でドイツに接し、東はネマン川(ドイツ名メーメル川)を境にポーランドリトアニアに隣接、ヴィスワ川(ドイツ名ヴァイクセル川)で東プロイセン西プロイセンに分けられる。東プロイセンの中央には東西にプレゴリャ川(ドイツ名プレーゲル川)が流れ、その河口に中心都市カリーニングラードケーニヒスベルク)がある。

プロイセン地方は、1772年のポーランド分割以降全域がプロイセン王国(後のドイツ国)の領域に入っていた。だが、第一次大戦後のヴェルサイユ条約によってダンツィヒ以外の西プロイセンはドイツ国からポーランドへ割譲され、東プロイセン自由都市ダンツィヒポーランド回廊によってドイツの飛び地になった。第二次世界大戦勃発(ポーランド侵攻)後、戦時中は再び全域がドイツ国ナチス・ドイツ)の管理下に置かれたが、大戦後は西プロイセン全域がポーランド領に、東プロイセンソビエト連邦(ロシア、リトアニア)とポーランドに分割され、それ以降はプロイセンという地域名が現地で使われていない。

第二次世界大戦以前のプロイセンの住民は、東方植民によって移住してきたドイツ人が多数を占めていた。だが、終戦前後にソ連が行ったドイツ人追放または国外避難でほとんどのドイツ人はドイツへ移住し、現在のプロイセンの住民のほとんどはポーランド人、ロシア人またはリトアニア人となっている。

プロイセンという名前は、プルーセン人またはプルッツェン人として知られるヴィスワ河口付近に居住した先住民に由来する。民族大移動以降はソルヴ人やカシューブ人のようなスラヴ系諸民族も移住してきた。またもう一つの説では、ロシアあるいはルーシの近くを「プロシア」と呼んだことから来ているとも言われている。

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